2020年5月26日
第7回「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」奨励賞受賞・大矢英代さん
受賞の言葉
このたび私の拙著『沖縄「戦争マラリア」ー強制疎開死3600人の真相に迫る』に、第7回山本美香記念国際ジャーナリスト賞・奨励賞を頂き、誠にありがとうございました。大変嬉しく、感激で胸がいっぱいです。選考委員のみなさま、山本美香記念財団のみなさま、そして取材の中で出会った全ての方々に、心より感謝を申し上げます。
「戦争マラリアって何だろう?」
拙著のタイトルを目にした方々の多くが、疑問を抱かれると思います。2009年夏、「戦争マラリア」を初めて知った時の私もそうでした。当時、将来のジャーナリストを目指して早稲田大学大学院で学んでいた私は、石垣島の八重山毎日新聞社でのインターンシップをきっかけに、偶然「戦争マラリア」と出合いました。その後、大学院を休学して日本最南端の有人島・波照間島に移住し、8ヶ月間、体験者とひとつ屋根の下で共同生活をしながら現地取材をしました。卒業後も報道記者として沖縄で取材を続け、気がつけば、10年におよぶ取材に突入していました。
体験者を訪ね歩き、膨大な軍隊の作戦資料を読み解き、明らかになった日本軍による沖縄戦の「秘密戦」の実態、そこに巻き込まれていった住民の悲劇については、2018年劇場公開のドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』(三上智恵さんとの共同監督)で描きました。映画は、文化庁映画賞やキネマ旬報ベスト・テン文化映画部門1位など多数の賞を頂きました。約2時間の映画では伝えきれなかった10年間の取材成果をまとめたのが拙著です。
私にとって、山本美香さんは憧れの女性ジャーナリストでした。学生時代、授業に特別講師として来てくださったことをきっかけに「彼女のようなジャーナリストになりたい」とずっと夢みてきました。世界の片隅で、戦場の狭間で、誰も立ち入りたくない危険な場所で、消えてしまいそうな小さな命に寄り添い、最前線で取材を続けた山本美香さん。優しい眼差しで子どもや女性に向き合いながらも、怒りをもって世界に戦場の不正義と不条理を告発し続けた彼女は、私にとってロールモデルでした。
大学院卒業後、私は沖縄のテレビ局の記者になりました。後を絶たない米軍がらみの事件事故。立ちはだかる日米地位協定の壁。日本の法律が適用されない、無法地帯の米軍基地。そして辺野古や高江への新たな基地建設。沖縄は、日米両国が生み出した「歪み」がしわ寄せされた場所でした。戦後70年以上が経ってもなお、沖縄戦の傷は体験者の心をえぐり、たくさんの体験者がPTSDに苦しんでいました。沖縄戦を原点とする深刻な貧困や格差が横たわっていました。どんな取材をしていても、問題の根底には沖縄戦がありました。しかし沖縄には、日米両政府から忘却されても声をあげ続け、足蹴にされても何度も立ち上がり、闘い続ける人々がいました。音を立てて崩れていく日本の民主主義の中でも、沖縄の現場からは真の民主主義が見えました。沖縄の報道にはジャーナリズムが生きていました。県民が報道を支え、報道は県民のために存在していました。そんな中で私は、山本美香さんが戦場から不条理と不正義を伝え続けたように、私も沖縄から問い続けるんだと現場取材を続けました。
2012年8月20日の昼。私は、ちょうど午前中のニュース編集を終えて、報道フロアに戻ってきたところでした。テレビから「山本美香さん…」と、彼女の名前が聞こえました。シリアにて取材中、銃弾に斃れたというニュースでした。私は、何が起きたのかわからず、ショックで立ちすくみました。
あれから8年がたった今年、山本美香さんのジャーナリスト精神を引き継ぎ、果敢かつ誠実な国際報道につとめた個人に対して贈られるこの賞を受け取りました。天国の彼女から「使命のバトン」を託されたような気持ちです。身が引き締まる思いです。
私が一番嬉しいのは「戦争マラリア」という、これまで沖縄の中でも埋もれてきた歴史に「国際報道」の評価をいただいたことです。
「戦争マラリア」は戦後長い間、単なる戦病死と勘違いされてきました。マラリア有病地への強制移住について、軍命の存在が明らかになったあとでさえ、「沖縄戦とは沖縄本島の地上戦のこと」という一般的な認識は根強く残り、戦争マラリアは「もうひとつの沖縄戦」「第二の沖縄戦」などと区別して呼ばれてきました。多くの体験者たちが「自分たちは辛かったけど、それでも沖縄本島の人たちよりはまだよかったんだ。辛いなんて言っちゃいけない」と心に鍵をかけ、苦しみを語れずに生きてきました。
しかし、地上戦がなかった島々で、自国軍によって甚大な被害を受けた一般住民の存在こそ、沖縄戦の最暗部の歴史です。自国軍が国民保護のために機能せず、むしろ自国軍によって3600人以上もの住民が死亡したのですから。
「軍隊は住民をどう扱うのか?」「住民を守れる軍隊は存在するのか?」「現在の自衛隊や米軍はどうなのか?」「国家にとって住民とはどんな存在なのか?」
「戦争マラリア」は、今を生きる私たちにそう問い続けると共に、75年前に実証済みの答えを提示しています。それは、いつの時代にも、どこの国にでも共通する普遍的なものであるということを、今回の「国際報道」としての評価によって認められたと受け止めています。それは長く、苦しい戦後を歩んできた戦争マラリアの体験者、遺族たちにとって魂が救われるほどの掛け替えのないことなのです。
「戦争マラリアを知った者の責任を、学んだ者の責任を、どう果たしながら生きていくのか。考え続けなきゃいけないよ。」
私を波照間島で8ヶ月間受け入れてくれた浦仲浩おじいは、学生時代の私に何度もそう話しました。事実を「知る」「学ぶ」ということは、自己満足で終わらせてはならない。そこには必ず社会に還元するという「責任」が伴うのだと、浩おじいは言いました。
10年前、「体験者の肉声を伝え残したい」という気持ちで「戦争マラリア」の取材を始めた私でしたが、浩おじいのいう「責任」の意味を自問し続けるほどに、沖縄戦から今現在へと続く一本のレールが見えてきました。「国防」の名の下に、琉球列島ですすむ自衛隊、米軍の基地建設。外国の脅威に怯え、防衛強化を支持する国民。安保法や秘密保護法など次々と生み出される新しい法律。そして憲法改正への動き。そのような日本社会の動向は、75年前、八重山諸島の人々をマラリア有病地に押し込めた強制移住の背景と酷似しています。過去から脈々と続く住民犠牲の構造は、今も私たちの足下にあります。「戦争マラリア」は、まだ終わっていないのです。
私たちがどんな恐ろしい未来を歩もうとしているのか、その答えは全て過去にあります。不幸な歴史を繰り返さないための英知を過去から学び取ること。それが本当の意味で「戦争を学ぶ」ということなのだと信じています。
もう二度と国家に騙されないために、社会から戦争の種を一掃するために、これからも伝えることを諦めず、ものを書き続け、映像を撮り続けていきます。戦争マラリアの体験者たちから託された教訓と責任、そして山本美香さんから受け取った「使命のバトン」を大事に握り締めながら。