山本美香 執筆記事
夕暮れの宮城県南三陸町。友人の消息を求めてこの町まで来た。明かりもなく、人の気配もない、時間が止まってしまった場所。ここにまだ多くの人々が眠っている。そう思うと震えが止まらなかった。静寂を切り裂くようにウミネコが奇妙な鳴き声をあげて上空を旋回する。津波は海岸からはるか先の入り江の奥まで到達し、多くの人の命を奪った。 あの小高い丘のふもとあたりに敏君と慶子ちゃんの家があったはず。しかし、そこにはうずたかく積み上かっとがれきしかない。
都留文科大学の同級生の敏君と慶子ちゃんは、とてもお似合いのカップルだった。2人は初等教育学科で私は英文学科。講義ではあまり顔を合わす機会はなかったが、仲良しグループの一貝として、学食で、時には友人の下宿先のアパートで頻繁に集まっていた。 慶子ちゃんは、いつも笑顔を絶やさない明るい女性。敏君は都活のラグビーとアルバイトに明け暮れながらもいつも成績優秀だった。卒業後、2人は教職につき、結婚した。最近は気仙沼で小学校の先生をしていると間いていた。震災直後、全国各地に散らばっている大学時代の友人たちと、安否の確認をし合った。どうしても達結がつかなかった数人の中に2人は含まれていた。大津波で壊滅的な被害を受けた南三陸に2人の住まいはあった。
海岸洽いの国道45号をたどるようにして、宮古、山田、大槌、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼、女川、石巻をまわった。どこへ行っても見たことのないような光景が広がっていた。
取材の合間を縫って、2人の消息を探した。海岸から山道を進み、高台に建つ小学校を訪ねると、震災当日の敏君の足取りが分かった。その日、被は私用で休み、自宅で地震と津波に遭遇したようだった。
「学校にいたら助かつていたでしょう」
校長先生が悔しそうに唇をかむ。校舎の外では、突然降りだしたぼたん雪が悲しげに舞っていた。
私か現地に入ったのは、巨大地震から9日後。道路をふさいでいたがれきがようやく脇に寄せられ、被災した町や材の奥にまで足を踏み入れることができるようになったばかりだった。
女川町は牡鹿半島の入り目にある港町。潮風にガソリンなどの異臭が混じり、鼻をつく中、目に飛び込んできたのは、基礎から根こそぎ横倒しになったコンクリートのビルだった。マグニチュード9・0の揺れでも建物は倒壊しなかったが、その後の津波で壊滅したのだ。 14.8メートルもの大津波にさらわれ、遠く離れた入り江で翌朝救助された29歳の男性は、「浮かんでいた屋根の一部や板に飛び移りながら湾を漂っていた。眠ったら死ぬと思い、必死で目を開けていた」と恐怖の体験を話す。屋上に一緒に遇難した人たちは、あっという間に波にのまれ、見えなくなったという。
震災から6週間経った今、被災者を日本全体を、そして世界を悩ませているのが福島の原発事故だ。私たちは地震、津波に加え、目に見えない放射能にほんろうされている。この三重苦をどんなことをしても乗り越えていこう。
3月末、慶子ちゃんの悲報が届いた。敏君は今も行方不明のままだ。彼が、一刻も早く子供たちの元に帰ることを願っている。
2011年4月23日